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平成17年(行ウ)第379号

原告 陳 述 書


東京地方裁判所
民事第38部 合議B2係 御中

2006年5月8日

原告 鈴 木 敬 治
私は次のとおり陳述致します。

一 私の思い
私もどんどん外に出たいのです。
健常者と呼ばれている人たちは、スタスタと外を歩き回っていたりしますよね。
あんなに早く動けなくていいから、自分のやりたい事をやりたいし、人にもたくさん出会いたい。
そのためには、私の手足となって、基本の動作をヘルプしてくれる介護者が必要です。
その介護者達も、彼らの生活を介護を仕事として成り立たせることにより,私自身もスムーズに生活が出来るのです。
ところが、その流れを止めようとする動きがありました。
この世に生まれて来て、見るものを見、触るものを触り、感じるものを感じたい。
それは、今晩のおかずの買い物から始まり、例えば、国会議事堂という政治の中心の建物に電車で来れる事も、全部、家の外に出るという外出であり、社会に触れているという事です。
ちなみに、駅員さんも、お仕事として私の電車の乗り降りをヘルプしてくれ、私の出会った人たちであります。
私は東京南部地域で障害のある人とそうでない人が共に走る「共生マラソン」のイベントの企画・実行に携わり、同じイベントの大阪での企画にも参加してきました。
この事も私にとって「外出・移動」であり、そして収入につながってはいませんが、私の「仕事」だと思っています。
いまこの瞬間、ここに自分が居られるのも外出が出来たからです。
この流れを止めないでください。


二 移動に関して
私達障害者にとって、移動するということは大変な問題です。
私にとってそれは、自分の頭がボケないように生活にメリハリをもたせる意味でとても重要です。なんといっても様々な人達との出会いを大切にしたいと考えています。私はどんどん社会とかかわっていくことで、周りの様々な人々に影響を少なからず与えるとおもいます。健全な社会を育てるためには必要です。
私は表に出ることを一般の人で言う仕事≠ナあると考え、街を変えていきたいし、実際に変わっていくものです。

例えば駅のエスカレーターだって昔は階段しかありませんでした。障害者にとってはもちろん、老人、子供たちにとっては大変なバリアーでした。しかし、障害者やその他多くの街の声により、今では誰でも使えます。
私達障害者は、表に出て声を上げて闘っていかなければいけません。

「誰かがやってくれる」とか思っていたら、当たり前な事が、いつまでたっても実現できません。街にはいろいろな人がいて当然です。障害者が街に出る事は大変ですが、それでも世の中にとっていい事だと思います。
"社会参加"と言っても沢山ありますが、講演会などは知識を磨くために大切な場所です。その後の交流会に参加することも大変ですが、大切にしたい場所です。飲みに行く事もありますが、それも当然の事だと思います。映画鑑賞・野球観戦・コンサート鑑賞その他にもたくさん"考える場"があっても良いのではないかと思います。私たちの人生を豊にするためにも生き甲斐を持ってもいいのではないでしょうか。
私は南部地域で、10年前から、毎年「共生共走マラソン」というイベントをしています。実行委員会では実行委員長も務めたこともあり、毎年5月末には事務局メンバーとして大坂のイベントに参加しています。これも大事な事です。
私はしばしば日本全国のいろんな障害者活動に参加します。自分一人のことばかり考えていては駄目だと思います。これからも全国のいろいろな障害者と意見交換し共に考えていかなければなりません。
私は一人では家から出られません。家から出られなければ前記した様々な活動に参加出来ません。しかし介助者がいればなんとかやっていけます。そのことをわかって下さい。


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三 私の社会参加―移動/外出の実態
私の一週間の予定は、だいたい決まっています。しかし、急な時や忙しい時は朝早く外出したり、夜遅く帰って来たり、場合によっては泊りで外出することなども、しばしばあります。だから、毎週、毎日、何時から何時迄がこうですと、すっきり表にして割り切れるものではありません。けれども、大まかに言うと、大田区が私の聞き取り票として証拠に出している様な形になるのかなと思います。表になっている時間帯についてもう少し説明させてもらいますと、昼の外出の場合と夜の外出の場合が、相手によって入れ替わることがしばしばあるのですが、区役所の方が、私から聞き取った内容を便宜的に処理する為、時間を統一しているものと思います。
それでは、以下に私の移動/外出の実態について詳しく述べたいと思います。

まず月曜日ですが、月に2回月曜の昼に通院の為の外出をします。現在は内科と歯科にかかっております。
13時または14時頃から18時頃迄かかります。
夕方18時からは「だれもが共に共生共走マラソン」事務局の活動の為外出します。事務局は毎週月曜の時期と隔週月曜の時期があります。又、イベントの直前になると多忙になります。
私は結成時から「共生共走マラソン」事務局の中心メンバーとして活動しております。この共生共走マラソンの趣旨は、地域で暮らす障害者が中心となり、さまざまな市民とが出会い、共に生きる社会を目指すというものです。だれもが参加できるマラソン大会を東京と大阪で毎年行っています。又、年間を通して様々なイベントを行います。
今年は副事務局長として10周年を記念する、より大きなイベントを準備しています。事務局活動について説明しますと、メンバーとの会合が主なものです。これは、連絡、事務とか企画の提案実行、又はイベントに参加している多数の関係団体との打ち合わせ等の内容です。「共生共走マラソン」は、大田区を含めいくつもの自治体の後援も受けて活動しています。

火曜日は表によると14時からの外出になっておりますが、実際にはほぼ毎週12時(正午)頃から外出します。火曜は主に公的介護保障を求める団体の活動に参加します。例えば国立市に本部のある全国公的介護保障要求者組合であったりとか、都内各地の在宅障害者の介護保障を求める連絡会(在障会)等の会合に参加します。会議はだいたい14時から16時とか18時位になります。又、会議の後、友人の障害者達と会食しながら打ち合わせする事もあります。

水曜日は、国とか東京都とか大田区や他の区市町等の役所関係で外出することがほとんどです。私は昨年国会で成立した障害者自立支援法には反対の立場で厚労省への申し入れとか、国会議員への陳情とか、国会前での泊り込み等の活動を精一杯やりました。又、大田区役所に対しては、この訴訟で争われている支援費移動介護要綱撤回を求める活動を精一杯やりました。都や他の区市町への取り組みも同様に公的介護保障の責任を果たしてもらう為に、申し入れや話し合い等の働きかけを強めて参りました。

木曜日は友人との友好的交流の為に外出することが主になります。障害者一人一人が孤立してしまわない為にも障害者の社会参加とか地域での自立生活を送る為にお互いが経験を語り合ったり、助け合ったりする場が必要なのです。そういう場を設けることが、木曜の友人達との交流の主な目的です。

金曜日は地域の労働組合の障害者組合員として活動しています。労組では、障害者の雇用問題等に組合の副委員長として取り組んでいます。

私はかつて、地域の福祉作業所に13年間勤めておりました。一般に、障害者の雇用状況が大変に悪いことは御存知だと思います。その様な中、多くの、特に重度の障害者は生きがいを持って働き、社会の一員として生きていくこと自体否定されてきたのが、これまでの日本社会の現実だっただろうと思います。

私自身、長く勤めた福祉作業所での仕事も、年を重ねるにつれ障害の重度化が進み、できる仕事も限られてしまい、結局辞めざるを得ませんでした。この様な経験が障害者の雇用問題に取り組もうと思ったきっかけでした。障害者も誰もが共に生き、共に働き、共に語り、共に助け合う世の中にしていく為にも、この労組での活動は私にとっての重要な社会参加の意味を持っています。社会参加すること自体が、私の生きがいであり、天職だとも思っています。

土曜日は、ほぼ毎週私が参加し関係している色々な団体の集まり等に行きます。だいたい午後か夕方に集まり、終わった後は、多くの仲間達との友好活動に充てています。

日曜日は、私の生きる楽しみの為の余暇活動に充てる様にしています。私はスポーツ観戦が大好きです。そして基本的に休日は映画やコンサートやショッピング等を楽しむことに充てたいと思っています。
しかしながら、この移動介護保障削減の為に、余暇時間をギリギリまで切り捨てなければならなくなってしまいました。本当にくやしくてしかたがありません。
障害者が余暇を楽しんでいるだけで「障害者のくせに福祉をもらって遊んでんじゃないよ」と健常者に怒られた事も今迄何度もあります。

それに輪をかける様に、大田区は社会参加は障害者を税金で遊ばせることみたいなものだから、削ってしまっても社会的に妥当性が疑われることはないと開き直っているのだと思います。こんな何にも大事なことが分かっていない健常者中心の考え方や矛盾のしわ寄せの犠牲になっているのが、大田区に住む障害者なのです。こんな事がいつまでも許されてよいはずはありません。都内でも大田区だけという移動介護要綱32時間上限問題こそ今すぐ撤廃させなければなりません。ここで大田区の考え方を一から改めさせ、正義を示さなければなりません。そうでないと、人々が本当に優しさを持って、互いに幸せに暮らせる世の中にしていくことができなくなってしまうのではないでしょうか。
大田区は区の約束として「障害者にやさしい街づくり」を揚げています。区庁舎の前には、大きなたれ幕まで吊るしたりしています。私はかつて大田区職員らと共に、街のバリアフリー化を進める為に、「人にやさしい街づくりを進める大田区民の会」の委員として活動して参りました。

しかし、街の中は、私達障害者にとって本当にバリアばかりです。バリアフリーにはまだまだほど遠いのが現状です。

例えば駅前に大田区役所のある蒲田駅は、2階駅改札に上るエスカレーターが電動車イスに対応していません。以前に電動車イスの転落事故を起こした危険な型式のものなのです。しかも、夜11時以降はエスカレーターが全く停止させられてしまうのです。つまり、夜11時以降、私達は駅改札に上ることすらできません。

JR側の説明では「大田区の予算による設備だから、区の方で早く改善して欲しいと何度も掛け合ったが、今だに対応する動きはない」のだそうです。私達障害者の積年の要望にも、管轄者である大田区はソッポを向いてしまいます。私達障害者や高齢者、ベビーカーと一緒のお母さん達等のいわゆる「交通弱者」が街や社会に自由に出歩いてこそ、街や社会は活性化するというのが私の自論です。なのに大田区が障害者の社会参加を32時間に制限するというのならば、一方で、大田区が街のバリアフリー化を進める意味などなくなってしまいます。せいぜい大田区の建設企業が潤うにすぎません。

又、大田区は「安心、安全な街づくり」をも掲げています。それなのに最近問題となっている耐震強度偽装の全国第一号物件は、大田区が繰り返しお墨付きを与えたというお粗末さです。
一般住民が安心できない、そんな街づくりの大田区に暮らす私達障害者がどれ程、日々不安な思いを抱いているか想像してみて欲しいのです。かつて、障害者が困難を乗り越え、社会に参加してきたからこそ、現在、バリアフリー化を義務づける法律や制度が整えられてきたのだと思います。そして今や社会通念としても浸透してきたのだと思います。

だから、この前のホテル東横イン(これも大田区役所の近くに本社があります)の障害者差別事件が、社会的に厳しい批判を浴びたのだと思います。あえて今、この世の流れに逆流する大田区が起こした本件が、障害者差別でなくて何だと言うのでしょうか。

私は重度の身体障害者として、大田区民の一人として、社会に参加し、そして街に外出することが私の使命でもあり、そうして大田区を良くしていくことは、私に出来る社会貢献なのだと思っています

健常者が街中で1日中働き、仕事の後、友と語り合い、自分の仕事に誇りをもって生きて、そして休日には家族と余暇を楽しむことと、今ここで私が述べた私の社会参加や移動、外出の実態とはイコールであると思っています。ただ、私には、身体障害者である為、介護保障によるサポートが必要なだけなのです。私はどこにでもいる54歳の働き盛りの一人の男性なのです。そして今述べたこの実態が私の生きがいでもあり、私の仕事でもあるのです。このことを深く理解して下さり、天下に正義の示されることを強く望んでおります。


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四 社会活動の中で、私が会報などで発表してきた文章の一部です
私は社会と触れ合いながら自分なりにものごとを考え、みんなと一緒に考えてきました。
これからもそんな当たり前のことが実現できると世の中であって欲しいと思います。


1. (1992年)自分との闘いだ
「共に生きる」ということは、健常者でも障害者でも同じで、自分と自分の闘いだ。
人がやってくれることではない。自分から変わらなくてはいけない。
今すぐに。少しでも・・・
例えば、以前にTVで放映されたが、僕の友達が障害者同志で結婚し、介助者を駅前でビラまきをして求めた。毎日50枚配っても、なかなか見つからない。それでも彼はあきらめないで、車椅子に乗って毎日毎日根気よくやった結果、今では100人の介助者を得た。その中には遠く宇都宮から通ってくれる人もいる。他にも大学にビラを置いてもらって、ボランティアを求めたりした。
自分一人だけの力ではできないことも、人と意見をぶつけあって理解してもらえることで、倍の力になることができると最近考えるようになった。
待っているだけじゃだめだ。自分から動かなければ。


2.(1994年)私が思うこと
去る11月18日に行われた講演会の後の談話会でのことである。知的障害者のIさんと同じアパートに住む2人の女性が、私に「ちょっとK中学校まで行って来ます。」と耳打ちをして途中で退出して行った。私には彼女たちが何をしに行ったのか、すぐに分かった。なぜなら、Iさんの手の甲には痛々しい傷があったからだ。後日、彼女たちからの報告で明らかになったが、やはりあの時、K中学校の校長先生に在校生徒のIさんへのいじめを訴えに行ったのだった。その結果先生と生徒が謝りに来たと言う。またそれ以来Iさんへのいじめも無くなったとの嬉しい報告だった。
話しは変わるが、実は私自身も8年前にH中学校の生徒から言葉の暴力を浴びせられた事がある。施設の先生に相談したが取り合ってもらえず、ボランティアの方に付き添ってもらいH中学校の校長先生へ直接訴えたところ、その生徒たちの態度が改められ良くなった。
前述の2例のように、SOSをキャッチした周囲の人たちが、親身にかつ真剣に対応してくれれば、いじめを苦に自殺する子供たちも無くなると思う。
愛知の中2のK君のご冥福を心より祈ります。
SOS=@HELP!


3.(1995年)きいてくれ
1月19日お風呂屋さんでのこと。
いつもやってもらっている(洋服の脱ぎ着)番台のおばあさんが「どうもありがとう」と礼を言うようにとぼくに言った。ぼくは言ったけど、その時は体調が悪くて頭にきた。いつも(礼を)言っているのに、そのおばあさんがしつこくぼくの言葉が分からないなどと、だまかして問題をすりかえてしまった。ぼくにとっては頭にくることだ。ぼくの本当の言葉で言っているんだけど、それをわかってくれない。悪いほうにとる人もいる。


4.(1995年)今こそ地域社会の輪を(大震災で思ったこと)
阪神大震災は今まであった大きな地震の中でも最も大きく、被害者も甚大で量り知ることはできないくらいです。なかでも、障害者は一般の報道には出てくることが少なく、想像以上の被害にあっているものと思われます。障害者の人々はほとんど情報を収集することができない状態のため、どこに安全なところがあるのか、窓口すらあることを知らない人が多い。情報が途絶え、不安な日々を送っていたものと思います。

今回の地震をもとにして、地域社会の見直しをしていかなければなりません。聾の人、盲の人、車椅子の人、その他いろいろの障害者の方は何を支えにすればいいか、不安の中で早くボランティアの人が抱えていってくれないかと願っていると思う。

今度の震災の後、障害者の人々が施設に入るか親族と暮らすかどちらにするかといわれていました。私がもし震災にあった場合、やはり一人で自立していく覚悟でいます。もちろんボランティアの支えもあります。

災害のニュースを見て地域のネットワーク造りが大事だと思います。今、あらためて地震に対する備えは、障害者も老人も一般の人々も地域社会の中で一丸となって輪を広げ日常の中でごく普通になされるものでなくてはならないし、これからの大きな課題ではないでしょうか。

情報社会といわれながら、障害をもっている人々には情報が事細かに伝達されていないという事は差別だと感じました。


5.(1995年)スキー場にて
3月3日〜5日まで、山形県と福島県の県境にあるスキー場に行きました。20人でバスに乗って朝出て、4時間で着きました。

知的障害者の人達に会って思うことは、一般的な事です。例えばお風呂に入るとか、トイレとか全然できないし、靴も自分でははけない人が、スキー靴は一人ではけるし、お母さんの後についてスキーをしている。いつもは見られない能力があるのだなと思った。

僕の先生(この中では先生と呼ぶけど本人はいやだといっている)は、いろんな事に夢を与えてくれた人です。前にその先生と話し合って「知的障害者は夏の川遊びの時も安全に気を配らなければいけない。」といった事がある。今思い出せば、スキーに行ったことは夢みたいだ。実際あの頃は、スキーなんて出来ないと思ったけど、やってみれば出来るんだなあと思いました。7年前に施設でスキーに行ったことがあるけれど、みんな滑れないから雪遊びで満足していた。先生は、やれば絶対出来ると言った。いろんな事をやってみれば、みんな出来るようになると思う。


6.(1995年)ボランティアについて
僕の周りにはボランティアの人がいる。
その人と話しをしたとき「あなたのボランティアではない」と言われ「あなたと私の友人関係だと思っています」とも言われたことがありました。その時僕は「それでいいのかー」と本当に嬉しく思い感じました。

こういう考え方の人がボランティア=友人
僕の周りにはたくさんいます。大切にしていきたいです。
ボランティア、ボランティア・・・という人より、友人、友人・・・と接してくれる人が、本当の意味でのボランティアではないでしょうか?

ずーっと前に(あまりいい話ではないのですが・・・)「私はボランティアで面倒をみています。」と言っていた人もいました。あとは同じようなケースで、区の名前は言えませんが職の名の所にボランティアと書いた人がいました。その人がお酒の席で酔っ払っているとき「ボランティアで、1年間10万円もらっているんだ」「これからホテルでパーティーでもやるかな〜」などと、冗談ぽく計画を立てていました。
私の意見ですが・・・いろんなケースがあります。でも自分の行動を正しく判断≠オて頂ければ良いと思います。

教えたり、教わったりすることも本当のボランティアのひとつ≠セと思います。


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7.(1995年)健常者+(プラス)障害者は共にいきる
ぼくは思った。感じた。
周りの人達はぼくを見ると障害者≠セと思うけれど、ぼくから周りの健常者を見て思い感じることがある。
例えば健常者でめがねをかけている人がいる。ぼくからしたら、その人は目の悪い人(視力が悪い人)=障害者なわけだ。もうひとつ例えて言えば、病院で入院生活を送っている人、いろいろな病があるけど、そういう人だってぼくから見れば障害者なんだよ。(あまり良い例えではなかったけれど)
そとから見て歩き方が変とはっきりわかる体の不自由さで障害者≠ニ言われるのは、ぼくはすごくイヤなんだ。ぼくのことも普通の人≠ニいう見方をしてもらいたい。


8.(1995年)疲れた一日
5月12日(金)に、出かける用事があって前の日の晩に、目覚ましをかけたつもりが、なんと!かけわすれていた。朝8:20に目が覚め急いで・・・出かける用意をして、その1時間かけて、大森駅にいく・・・全部出かける用意が出来るんだけど・・・トイレに行ったり服を着替えたり・・・ぼくの場合は服のボタンが上手くかけられない。あと・・・ズボンに着替えたり(はくとき)笑われちゃうかもしれないけど・・・僕はお腹がでているので・・・ズボンをはくのにひと苦労してしまう。身体の調子が良い時などは、簡単に着替えることも出来るんだ・・・毎日そうとは限らないんだ。調子の悪い時などは全部洋服を着るのは出来ても、トイレに行って、又、トイレに行って・・・せっかく服を着たのに、脱いだり着たりの繰り返しで疲れちゃうんだよね。


9.(1995年)タクシーですったもんだ!
7月7日に蒲田にある大田区民センターから、タクシーに乗って家に帰ることにした。いつもは区民センターの前でタクシーをつかまえるのは(乗ることは)かなり難しい。時間帯が悪いのかもしれないけれど・・・なかなかタクシーはつかまらない。でも7日はラッキーだった。でも、その後が問題・・・タクシーに乗る時運転手さんが、僕と介助の人を見て一言、「付き添いの人も一緒に乗ってくださいね」と言った。一緒にいた介助の人は「この人はタクシーを一人で乗るのに慣れていますので大丈夫ですよ」と言い返してくれた

でも運転手さんは僕を乗せるのを渋っていて、今度は「お金はあるんですか?」「目的地の場所の説明が出来るんですか?」とかなんとか聞いて、乗せないよーに、乗せないよーにするんだよ。初めてじゃなければわかるはずだろーにな?とにかく僕を乗せたくないのは、みえみえ!いろいろと話しているうちに(ムダな時間を過ごしているうちに!)そのタクシーに乗る事に成功!そしてタクシーに乗り、目的地の大森町に着き、ちゃんとお金を払って降りた。

本当なら・・・こんなにもめてなかったら・・・すぐにタクシーに乗せてもらえていたら、運転手さんに「ありがとう」の気持ちを込めて「おつりはいいです、とっておいて下さい」って言ってたけど・・・こんなんじゃね〜!?僕の気持ちはお金も払ったし、道の説明だって出来たんだから、障害者をバカにするな!ってつくづく思い、そして悲しくなってしまった。

世の中にはいろんな人がいるね。障害者を仲間として見てくれる人。助けてくれる人。又、障害者をとかく嫌って、仲間としてさえも認めてくれない人。どんなに困っていても助けてくれずに、見て見ぬふりをする人。本当にいろいろな人がいる。後に述べたような人達がどんどん増えていったら・・・まいっちゃうな〜。

タクシーの運転手さんは、きっとあとに述べたような人達と考え方が一緒だろうし、同じ仲間だろうね。もうこの運転手さんには会いたくない。乗り会わないことを いのるよ!


10.(1995年)ぼくの人間関係のこと
自分のことだけど、ある友達から「おまえ、そんなこと言うと友達がなくなる」って言われた。お金の事でけんかしていたんだけど、貸すことも悪いし、借りる方もどっちも悪いけど、ぼくは困っている人は助けようという心がいつもあるから、お金を貸した。その友達は頼むとお風呂で背中を流してくれたり、その他にも世話になっている。この前、その彼と江ノ島に行ったとき、「おまえとは行かない」とか「よだれをたらして・・・」とか差別しているみたいなことを言うので、ムカッときた。その彼とは二年位前からの付き合いで、車のローンとかこの前も三万円ほど貸している。お風呂で背中を流してくれるときのお風呂代はぼくがもって、帰りにラーメンを食べた時も払っている。きのう昔の友達と話した。ぼくはぼくなりの付き合い方をしていけばいいと言ってくれた。ぼくの人間関係ではいろいろな人がいて、九州や北海道に連れて行ってくれる人もいて、そんなぼくと闘ってくれる人は言う、彼はぼくの悪口を言って歩いていたらしい。ぼくは彼から他の女の人の悪口とかを聞いたこともある。ぼくがお金を貸したりするのはぼくの心遣いなのに、その事をわかってくれないし、頭にきたのだ。


11.(1995年)言わなきゃわからない、変わらない
十月某日にある福祉施設で祭りがあった。そこへぼくがいったときのことだ。職員の人(女性)が「そばを買ってきてあげる」と言って、それをボランティアの男性に頼んだ。そのボランティアの言葉使いが、ぼくを子ども扱いするように「・・・やってちょうだいね」というような(言葉は忘れたけれども)言い方だった

。頭にきたから、そのことを抗議しようとでっかい声で言ったら、暴れていると勘違いされてしまった。本当のことを言おうと思ったのに・・・。そして別の部屋で職員(男性)と話すことになったんだけど、何と言ったと思う?「けいじくん」って呼んだんだ。さっきぼくが(抗議しようと)言いたかったことは、彼には通じていなかった。その職員はぼくがこの福祉施設に13年間通っていた以前からいる人で、20年間位この職場でやってきている人だ。「ぼくのことをそんなふうに呼ぶんだったら、『おまえ』と呼ぶよ。」と言った。

その施設の職員は自分のことを「○○先生」と呼ばせている。医者でも何でもない職員を「○○先生」なんて呼ばせるのは変だ。「そういう姿で蒲田をブラつくな」とか「トレパン、ジャージで歩くな」などと言う。その施設に来い来いって言うけど、そんな魅力のないところは行きたいとは思わない。親にも、上司にもゴマをするし、上から見下ろすような態度をとる。この施設が大田区のやり方になって(△△さんのときは良かったのに・・・)悪くなってしまったので、ぼくはその頃辞めたのだ。


12.(1995年)続:言わなきゃわからない、変わらない
バカバカしいけど、やっぱりハラがたつ

あるところに電話をかけたときに、ぼくが「○○さんお願いします。」と言ったら、むこうの人が「○○先生を呼ぶんですか?」と聞いてきた。ちょっと頭にきてしまい、怒りそう(怒鳴りそう)になった。でもバカバカしく思い、電話を切ることにしました。ずっと前、その○○さんと電話の話しをすることができました。その時「私の施設では、そんな呼び方(先生)はしていません。」と言われてしまいました。これは一ヶ月前の話しで・・・さっきの電話の話は一週間前の話です・・・。そんなことで良いと思っているんですか?障害者の人権も大切にしてください。

この前ある講演会で、脳性麻痺と知的障害は別な扱いをしていたけれど・・・
ぼくの意見はみんな同じ事をできても、できなくても・・・子どもへの言い方じゃなく、大人のつきあいをすれば、障害者も健常者も差別無く、生活がしやすくなるのではないかと思います。また、外国の障害者も日本の障害者も、お互いの国を行ったり来たりしている、そんな時代なのに、さっきのような障害者に職員を"先生"と呼ばせている現実を隠そうとする。バカにした行動をとる健常者がいるということに、ハラがたってしかたがない。


13.(1996年)ともに生きるについて(1)
去年はいろんなことがあった。12月15日に千葉に出かけた。
その時ぼくの介助をしてくれた男性(55歳くらい)と、車中いろんなことを話した。ぼくはその人とあまり付き合いが深いわけではなかったけれど、ぼくの話をちゃんと聞いてくれたし、自分のことも話してくれた。
その人は7年ほど前までは社長職だったらしい。なまずの家の○○さん達と出会ったことがきっかけで、自分のことを本にまとめるらしい。その人は僕のことを、おっかない人だと思っていたらしいが、話してみるとすごく面白い人だと思ってくれた。
ぼくはこういう人だったら、「敬ちゃん」と呼ばれてもかまわないと思う。その日、千葉の勝山に行ったのはぼくが18歳のときに知り合った友達が、これから自立ホームを創りたいという計画があったからだ。その友達は、昔ぼくが朝日新聞に投書したことがきっかけで知り合った人で、福祉大学を卒業したが福祉関係には進まず、農業をやっている。実家がすぐ近くで、同学年の男性だ。ぼくが小さい時、何で養護学校に行かなくちゃならなかったのだろうとか、普通の学校に行っていれば良かったのに・・・とか話してくれた。


14.(1996年)ともに生きるについて(2)
その3人(元社長の男性介助者と18才のとき知り合った同学年の友達とぼく)で、いろんな施設を見てまわったこと。
まず一つ。知的障害者の幼稚園児から、高校生までがいられる施設があった。大人になるとそこを出て、別のところへ行く。それはある園長がやっている生活ホームで、自分たちで土地を買って建てたところだ。そういった自立ホームが6ヶ所ある。その中の1ヶ所を見たら、6人住んでいて、それぞれ個室を持っていて食事の時は食堂に集まる。園長は、昔農業をやりたかったが福祉関係に進んだ。そこの給食は、園長が献立をたてて作っている。


15.(1996年)2.16〜18に神戸に行ったこと
16日の10時に夜行バスで出発、翌17日朝8時に神戸に着きました。
まず、ある公園の仮設住宅にいる男の人が、小さないざこざがあるということを話していた。
駅からタクシーで20分位行った所の仮設住宅。そこは600棟位の住宅があるけど半分位しか住んでいない。やっぱり駅から遠いからだろうか。荷物だけを置いている人もいる。駅まで行くのに1500円もかかってしまう所だ。老人が多くボランティアの人に来てもらいたいが、遠いのでなかなか来る人も少ない。
役所の人は、今日仮設住宅に入って来たばかりの人に、「いつまでここにいますか?」と聞くそうです。住宅に困っているから仮設住宅に入るのに、そんなこと考えられるはずがない。新聞がオウムのことばかり取り上げて、神戸のことを取り上げることが少なくなった。問題点などは沢山あるので、もっと新聞で取り上げてほしい。


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16.(1996年)ともに生きるについて(4)
『なまずの家』のこと
なまずの家は、関東で初めてのグループホーム。7年ほど前から日本中でグループホームは増えてきたが、ここは13年も前からやっている。グループホームになる前は、障害のある人のリクリエーション的な活動をしていた。今は重度の知的障害者であるNちゃん(女性33才)とOっちゃんと呼ばれている男性(62才)の生活を、介助者代表のKさんと6人の介助者で交代に支える(夜の泊まりも含めて)。2人は昼間作業所で働いている。
なまずの家は品川区の西大井にある。ぼくは江戸川にある脳性まひ者が生活していたグループホームの人から、7年前になまずの家を紹介された。軽度の障害者の自立ホームはあるけれど、このように重度の人達のホームはないだろう。

記者−「鈴木さんは、なまずの家と、どうかかわっているのですか?」

カンパ活動の事務所としてなまずの家を使っている。

 記者−「なまずの家の人達を見てきて、こういう問題があったとか、こういうことを解決したとかいうことってありますか?少し具体的にみんな(通信読者に)わかるといいと思うけれど。」

7年前の話しで、ぼくが初めてなまずの家に泊まった時、朝いきなりOっちゃんにぶん殴られてしまった。なぜかわからなかったが、ぼくの想像ではぼくに対してやきもちをやいたのではないか。その頃はもう一人女性で知的障害のある人がいて、彼はその人が好きだったようだ。それがきっかけで、Oっちゃんは怖いと思い、ぼくは謝ってばかりいた。しかし、ある時ぼくに対して優しい言葉をかけてくれた。それ以来、ぼくも対等にものを言うようになっている。Nちゃんは何も言えないけれど、彼女はわかっているよ。ぼくの髪の毛を掴んで痛いけど、たぶんNちゃんなりの挨拶だろうと思う。ぼくの友達やここを訪れた人達は「なまずの家の人達はえらい」と言う。ぼくも同感でつくづくそうだと感じている。
以前ぼくを千葉の自立ホームに連れて行ってくれたのは、なまずの家で介助をやっていた人だ。その人は、OっちゃんやNちゃんに出会って本を書こうと思い、今原稿をためている。このなまずの家の近所や、地域の人達は、なまずの家の行事(持ちつき大会)に参加している。大人も子供も外国人も地域に暮らすいろいろな人が参加している。ここでは、「ともに生きる」ということでは、本当の意味で実践されています。と言いたい。


17.(1996年)ともに生きるについて(6)
3年前、広島と九州に旅行した時のこと。9日間車で行ってきた。東京を夜8時頃出発し、朝6時頃大坂サービスエリアで朝食を取った。そのとき見ず知らずの人が「やってあげよう」と言ってうどんを食べさせてくれた。こういう人に会うとビックリしてしまうこともあるけど、今はそういうことは当たり前だと思う。大坂に行くといつも思うが、とても嬉しいです。この旅行は友達と一緒で、彼が車を運転して行った。彼はぼくの酒飲み友達だ。時々意見が合わないが、ぼくにとっては面白くて、大事な事を教えてくれる人だ。
岡山に着いて温泉に入った。その日はとても暑くて、最高気温が42度まで上がった。車で4時間かけてホテルに着いた。夜、街に飲みに行ったが、11時頃でも気温は下がらず38度!ビックリしてホテルに戻った。

翌日、次の目的地、広島のホテルへ向かった。岡山から広島まで一日かけていろんなところへ、遊び回った。
そこまでは2人旅だったけど、一人合流して3人になった。前から約束していた人で、広島を案内してくれた。広島ではいろんなことを感じた。広島の原爆ドームに行ってムカッとした事がある。ここには原爆で亡くなった人の全ての霊が一緒に祭られていると思ったが、韓国の人々の霊はドームの端っこに分けて祭られていた。それを見て、本当の平和じゃないと思った。本当の平和って何なのか考えさせられた。誰でも平等に、一緒に祭ることが本当の平和の原理じゃないか。いろんな核の問題とかあるけれど、まず同じ人間として一緒に祭ってほしい。広島と長崎とで同じこと(本当の平和について)を考えた。原爆の問題では、被爆者のお腹の赤ちゃんにまで影響していることが、恐ろしいと思った。今の子供たちには、広島と長崎に絶対に行って見てもらいたい。本当の平和ってことを少しでもいいから、考えて感じてもらいたい。

広島には去年も行ってきた。行って良かったと思う。今年も行く予定だったが、用事で行けなくて残念だった。いろいろ見学をして広島で一泊し、3人で8月9日長崎に行った。


18.(1996年)ともに生きるについて(7)
長崎でも暑かった。そこから車で宮崎へ行った。ドライブインで幼稚園くらいの子供が、僕を見て「変な人が歩いているよ」と言ったので、ぼくは何も感じなかったけど一緒にいた友達が怒って「なんでそんなこと言うの!」ってその子に言った。するとその子のおじいさんらしき人が「こんな小さな子に怒ってもしょうがない」と言って逃げて行った。はっきり言えば、そのおじいさんも障害者じゃないか!って言いたかったが・・・夕方6時の船に乗り帰路についたが、友人とぼくの2人はすっかり船酔いしてしまった。

似たような出来事を、この夏お風呂屋さんでも経験してしまった。(ボランティアさんによる聞き取り)
8月19日の午後7時40分頃、銭湯に行った。すると、小学生の少年がぼくに向かって「フレンチボーイ」とか言ってからかった。ぼくは言葉の意味がわからなかったけれど、その時大きな声で怒った。風呂屋さんが出てきて「子供のことだから、そんなことやるんじゃない」と言って止めたけど、やっぱり正しい事を言う事は子供にとってもいい事だと思う。お風呂屋のおばさんはぼくに「あの子は少しおかしいので相手にしないで。」と言う。その子だってそんな目で見られていると分かったら、嫌なのではないか?ぼくは正しい事は言った方がいいと思うし、大きな声で話せば理解できると思い話したのです。

先日、友達と'学校U'(映画)のことを話した。彼女はいろんな障害者運動をやっている人だ。映画に関しては「くだらない」とか「あれはドラマだから」と、そんなことを言った。ぼくはちょっとカッとなって怒ってしまった。ぼくが問題としたいことを、わかってもらいたくて、言いたかった。しかし、何十年障害者運動やボランティア活動をしていようが、本当のところを分かってくれない人はいて、それはそれでしょうがないのかと思った。別の友達はこうも言った。「障害者の上に立ってもらいたい」と。ぼくも昔は、障害者自身がそうするべきだと思っていたけれど、障害者とか健常者とかではなく、誰でも平等の原理や弱い人の立場になって闘ったりしてくれる人が、上に立って引っ張っていってほしい。また、映画だったら、ぼくの言いたい"本当の姿"を表現してくれれば満足だ、ということを言いたいんです。

山田洋次 様

拝啓
遅くなってすみませんが、映画"学校U"を見た感想を、お伝えしたいと思います。とても良い映画だと思いますし、涙がぼろぼろ出る場面もありました。しかしぼくが期待していた事については、何も変わってなかったと思いました。ぼくが大事だと思う事は、「養護学校はなくていい」という事です。それについてもう少し具体的に映画の中で言って欲しかったです。ぼくは、頂いた手紙の中の文章に書かれてあった、ノーマライゼーションのことが、映画の場面に出てこなかったことがやっぱり不満に思います。「養護学校はなくていい」って言っているだけなので、そこがもったいなく思いました。
今後のご活躍を期待しています。
敬具


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19.(1996年)共生共走マラソンを終えて
今年の2月頃から、共生共走マラソンの準備会が始まった。ぼくは実行委員長になった。何もできないけれども、障害者のメンバーがみんな忙しくて、やる人が誰もいなかったから、一応委員長になった。今回まで一回もそんな役をやった事がなかった。高等学校の文化祭に、簡単な役をやったきりだ。今回のような責任の重いことは初めての経験だった。

最初は大変な事を引き受けてしまったと思った。10月頃から電動車椅子に乗って自由に動けるようになったので、本当はいろんな所へ資金集めに行きたかったが、いろいろな事情でできないこともあった。そんな中でも周りの人は応援してくれて、自分で電動車椅子に乗り、自分の言葉で様々なことができた。当日の4日前には、ボランティアの名簿作りやパンフレットの原稿集めなどの準備に夜12時頃までかかった。翌日土曜日は、多くの資材を運んだり、舞台を作ったりし、その日はそこで泊まった。パンフレットや広告作りのために、泊り込んで翌朝まで作業したメンバーもいた。土曜日は7〜12時頃まで相棒と飲みに行き(みんなは、いなくなったと捜したらしい・・・)戻ってきて公園に張ったテントの中の寝袋で寝た。(寒かった!)

 マラソン当日の朝、ぼくはボランティアの方と一緒に受付係りをやった。開会式ではコロンビアトップさんがいろいろ話した後、ぼくも簡潔に1分で話した。それからマラソンが始まった。ぼくは、1周目は電動車椅子だったために遅れてしまった。(まぁ早さを競う大会ではないのだが)その後は受付を、周りの人に手伝ってもらいながらやった。いろんな出店がありぼくも食べ歩きたかったけど、受付係りだったので食べなかった。イベントもあんまり見られなかったが、'車椅子ファッションショー'には出た。

やってる会でマラソン最終周を回っている時、ふと思い出したことがあった。(参加した人は気が付いたかもしれないけど)パンの'結'チームがある人の写真を持って走っていた。ぼくはその写真の人を知っている。Oさんだ。マラソンしながらOさんのことを思い出した。3年前大坂で会った。11時間マラソンの時「来年は東京でやろう」とぼくの友人と話していたらしい。その後2ヶ月ほどして、彼は亡くなった。もう一人、今回のマラソンを一緒にやる予定だった人でぼくの飲み友達のSさんがいる。ぼくに、ハッパをかけてくれる人だった。その人も今はいない。思い出して泣けてきてしまった。そんなことを思いながら、最後の周を走った。いろんな人がいたけれど、ぼくから見たら、あの時"障害者"は一人もいなかったと思う。"共に生きている"と思った。

しかし、現実は・・・
 11月6日とても寒かった夜の出来事です。ぼくは帰宅のため22時に中延駅で電動車椅子を使い電車に乗ろうと思って、切符を買い改札を通った。しかし、階段だったのでホームには上がれなかった。駅員は「ダメだ、戻りなさい」と言ったので、地下鉄の中延駅から帰る事にした。地下鉄では駅員さんがいろいろな機械を持ってきて、ぼくを下のホームまで降ろしてくれた。大井町線では、車椅子のぼくを電車に乗せるための努力を、あまりしてくれないことを感じた。池上線では今は駅員さんが親切に対応してくれるが、聞くところによると、これから試験的に車掌のいない電車を走らせるらしい。そうなると、車椅子で移動したい人にとって、これからどうなるのか心配だ。常々、東急グループに対して頭にきていることがある。以前、バスに乗ろうとしたら乗車拒否されたり、運転士に無視されて乗れなかったり、神戸に行こうと予約しようと思ったら「あなたたちはダメです」と言われたり・・・。いったい何を考えているのだろうかと腹が立っている。


20.(1997年)共に生きる(8)
 昨年の暮れに、やってる会のメンバーの中で亡くなった人がいた。その人は高齢だったけれども、ぼくの意見や若い人の意見を、しっかり受け止めてくれる人だった。そして、いろいろな問題をきちんと調べて、自分で行動していた人だった。威張らず、自分の思ったとおりの意見を述べる人、偉大な人、Yさん。今でも彼女の心は、ぼくの胸を打っている。今年になってからもう一人、ぼくにとって偉大な人が亡くなりがっかりした。その人は「なまずの家」の人で、共に生きるためのいろんなことを、ぼくに教えてくれた。今は言いたくないけれど、だんだん「共に生きる」の中で言っていきたいと思っている。

 それから先日(1月6日)大森町である人に呼び止められて(背中をぽんとたたかれて)聞いたことが、夏のやってる会通信に書いた話(お風呂屋で小学生がぼくをからかった時の事)をその人は呼んで、その学校のクラスで子供と話し合ってくれたそうだ。それがとても良かったと言ってくれた。ぼくもそう思う。ぼくは「努力」とか、かっこいい言葉じゃなくて、本当のことを述べていきたい。  これからも宜しくお願いします。


21.(1997年)共に生きる(9)
 この前の通信で簡単に書いたんだけど、なまずの家のMさんの事を、また少し言いたい。5年前、ある友達とぼくがケンカをしたことがあった。今年の正月にその彼から年賀状が来て、珍しいことがあるものだと思いながら、5年前のその時のことを思い出した。その時のぼくたちのケンカをMさんが横で見ていた。ぼくはMさんは、ただ見ていただけだと思っていた。しかし、Mさんは亡くなる一週間位前に(ケンカ相手の彼と)「うまくやってくれ」とぼくに言った。ケンカをした前の年に、ぼくたちは'生きる場所'を千葉県につくろうと、運動していた。が、ぼくはあまり乗り気ではなかった。その時Mさんは、Kさん(なまずの家の世話人)と一緒に、(何も分からなかったかもしれないが)ついてきていた。その時の事が、今朝起きたときにぼくの頭の中に思い出されて'生きる場所'を作らなきゃいけないと、Mさんが言っているような気がした。Mさんは、なにもできなかったかもしれないけれど、いろんなことがわかっているな、そしてぼくに教えてくれたなと思う。  昨年ぼくは仲間5人で、大坂の11時間マラソンに参加してきた。友人とMさんとその中に一人若い女性がいた。彼女もMさんの告別式に来ていた。  なまずの家で、介助に来ている人の書いたものがいいなぁと思ったので、読んで欲しいと思う。

 
    その風にのって彼はどこからきたのか
    わたしたちに限りなく問い続け
    わたしたちは力のある限り
    答え続けなければならなかった

    通りをふっと吹きぬける風に包まれて
    彼の手が触れる
    柔らかく、あたたかく、静かな手だ

    自分でもどうにもならないハイな時
    ゲンコウハンタイホ!手首を掴まれる
    いかつい、しわぶくれの、怒った手だ

    酔っ払うてガハハと笑う
    ブーツの女が好き 派手な女が好き
    伸びてくる手はちょっとエッチな男の手

    癌に侵された肉腫の膿とのたたかい
    痛がり、あてがうガーゼをふり払おうとする
    力のない、甘えた、子どもの手になった

    好き勝手に生きて、やりたいようにやって
    傷ついた人はたくさんいたが
    まるで"寅さん"のようだったと
    同時に思った

    14年間日々の暮らしのなかで
    わたしたちは彼から
    ありのままに在ることの意味を
    教わった

    自らの運命を嘆くことなく
    うけいれ生き抜く

    私たちはやはり
    彼と出会わなければならなかったと
    いま見送る時に、思う

    解けなかった答えを置き
    来た風にのってかれは逝った
1997.1.18
なまずの家一同


22.(1997年)共に生きる(10)
今年の1月ある集まりで、これから何のサークルにするかいいアイディアがないかと話し合った。いろいろなサークルがあるけれど、"言葉サークル"をやろうという案が出た。ぼくは絶対に反対だった。ぼくは「言葉」じゃなくて手話をやってもいいんじゃないかと提案した。個人的にはある人ともめた。言葉というものは、ぼくにも分からないけれども、(単なる言葉ではなく)いろんな「ことば」をいうのだと思う。このサークルのメンバーには芸能関係者や元アナウンサーのような人もいた。その人達は、上手い言葉、良い言葉、など偉そうに言っているが、何もなってない。うまい言葉、いい言葉といったって、言葉がない人はどうなってしまうのだろうかと思う。

この前、映画「月桃の花」を見た後の2次会で、手話のメンバーと耳の聞こえない人達が話しているのを聞いた。映画には字幕が付いていて良かったが、爆弾の音や、戦争の場面の音が字幕に入ってなくて聞こえない人に、事実を伝えていないのはいけないと思った。本当に"共に生きる"ということは、聞こえる人も、聞こえない人も、同じことを分かるようにするということだと思う。


23.(1997年)共に生きる(11)
今年はいろんなことで、世の中おかしいと感じている。
自分のことだがこの前、コンサートの2次会の帰りで車椅子に乗ろうとしたら、車椅子がなくなっていた。あんな車椅子でも、世の中には盗む人がいるのかなと思った。ニュースなど見ると、バカバカしいと思うことがある。この前の沖縄の特措法改悪の件も、国民の意見を聞かないで決めてしまったのは、絶対におかしい。今のやり方は偉い人もみんなダメだと思う。やっぱり国民のための政治をやんなかったら、いつまでたっても変わっていけないと思う。

「南六郷福祉園の体験研修」を読んで
ここに書かれたとおりのことだと思うが、施設側は彼女たち自身ができることや、その人なりにできる程度をもう少し考えるべきだと思う。そうしないとただ施設に入れているだけ。その人なりの目的を持って指導しないといけないと思った。あるボランティアが文句を言ったけど、その人は20年、30年やっていても何の進歩もない。原点を忘れていると思う。

今ぼくが旅行や外出に出る時、一緒に付き合ってくれる友達がいる。その彼とは1年ほどの付き合いなのによく分かってくれる。ぼくより若いけど、ときどき厳しい忠告をしてくれたり、いい人だなぁと感じている。怒る時ははっきり怒る。彼は何が大切かを自分の中ではっきり分かっているのだと思う。例えば、同じ絵でもよく見れば変わって見えることがある。その訴え方はそれぞれ別な形で出るんじゃないだろうか。はっきり言えば(簡単に言えば)生きている事は仕事だ。死んでいる人は働けないからできない。生きている人にはっきり言えることは、やっぱり人間と人間の戦いじゃないのかなって思っている。そんなぼくの考えです。


24.(1997年)共に生きる(12)
 5月、6月と大坂に行った。他の用事があって行ったのだが、ぼくの付き添いの人から「テレビで見た」と誘われて、ある店に行った。その店は1年前に行った事がある。店名は"K"。本当に共に生きるって感じだった。大田区蒲田にも"I"みたいなお店はあるけれど、大坂のそのお店はライブもあって、車椅子が15台入れるくらい広くて大きな"共に生きる"店だ。障害者の親たち、周りの人達、他の障害者団体などが関わり、手伝う。様々な"共に生きる"を感じる、とても明るい店だ。ぼくたちが行った時夜のお客さんは15人。ぼくを入れて車椅子の人は3人。肢体不自由の人が2人。みんなでお酒を飲みながら、ライブを聴いて11時頃までいた。ぼくたちの住んでいる地域では、経験できない事ができた。このお店のレジ係は障害者自身がやっている。それを目の当たりにしたとき、やればできるんだと思った。

大田区の大森にも共に生きるをうたったお店がある。格好はいいけれど、共に生きるという事に関して言えば、どうも中身がないように感じる。以前、このお店でバザーをやっていたが、障害者は一人もいなかった。(店の経営者は大田区の職員なので、アルバイトはしてはいけないと思うのだが・・・)共に生きると言う事に関してその店のやり方に、ぼくは納得できない。障害者運動にしたって、根本を理解した内容の運動ならぼくも納得するが、障害者を口先だけの口実に使っているようにも見えてしまう。以前、ぼくがバザーをやろうと誘った時は「あなたとは嫌だ」と言う返事であった。その理由は聞かなかった・・・。ぼくは大森へ行く時などは、その店を使う事にしたりして、一生懸命協力しているつもりだ。しかし、障害者と話そうと言っているわりには電話の対応は無反応だ。それでいいと思っているなら、共に生きるを応援できないと思う。いろんな障害者と手をつないでいかなかったら、店が考えている"輪"は広がっていかないと思う。


25.(1997年)共に生きる(13)
沖縄に行ってきた。大田区から4人の耳の聞こえない人達も参加していた。(ぼくも一応小さな労働運動をやっている)はっきり言えば差別をしている。耳の聞こえない人のための運動も始めたらしいが、昔の国鉄の、障害者をだしにしたことと似たようなことをやっていると思った。自分たちの意見・言い分ばかり言って、せっかく沖縄まで行った障害者の意見を紹介していない。車椅子用のスロープの前で、自分たちの店を出していた。おかげでスロープが見えなかった。終わってホテルに帰ったら、階段しかなかった。車椅子のぼくは人の手を借りて上げてもらったが、こんな不便なところでは労働問題はできないと思った。

4日目からは4人とは別行動で那覇へ行った。「海と風の宿」で2泊した。そこのマスターは車椅子のNさん。頚椎損傷の49歳。生まれは東京だが、ここで沖縄のヘリポート問題をやっている。彼はあまり動けないけど(障害の為暑くて)、たまに自分の子どもと車にマイクを積んで那覇の町へ出かける。この人はたいへんな事をやっている人だと感じた。

今度は、島に渡り「土の宿」に1泊した。そこの経営者は脳性まひの女性で、障害のある仲間と一緒にやっている。泊り客は、食事を自分で用意する。その女性のいろいろな経験談を聞いた。はじめはつまらなかったが、いつの間にか面白くなっていた。

 東京に戻り8月16,17日に、ホームレスのお祭りが東京と横浜であり行ってきた。コンサートが行われていた。行ってみてとてもよかったと思う。小さなところだったが、労働者の運動をやっていた。沖縄で見た労働問題はかっこいいだけで、中身はなかった。それと比べるとホームレスのお祭りで見たものは、規模は小さくても障害者の労働の事とか、核の問題とか、平和運動とか、一生懸命やっている人がいると感じた。そういう人が本当の運動家だと思う。


26.(1997年)共に生きる(14)
ちょっと誤解していたことが・・・

通信NO.57の"共に生きる(12)"で大田区のある店について少し文句を言ってしまったけど、先日、その店の人と話しをして、いくつかぼくの誤解があったことがわかった。

 まず、お店をやっている人は、大田区の職員だからアルバイトになってしまうんじゃないかと言ったこと。本当はボランティアでやっているそうだ。なぜなら、障害者の自立に向けて、これからの生きる場所を作りたいという気持ちからだ。野球の話しなど交えながらゆっくり話し合えた。昔にバザーの件でいろいろあって気まずかったけど、もう過去の事は水に流して、いつまでもこだわらないで生きたいと思った。だからこれからは、そのお店に一生懸命協力していきたいと思う。

第2回共生共走マラソンについて
実行委員長 鈴木敬治

準備委員会を9月から始めています。共生共走マラソン第2回目は、来年5月24,25日に品川で開く予定です。
参加人数を昨年より増やしたいと考えています。いろんな人(障害者・外国人・労働者・女の人・男の人・子ども・老人・アイヌの人etc…)の参加を望んでいます。一日だけでも共に走れたらいいと思います。
たくさんのバザーや、コンサートもやり、昨年よりもっと楽しい思い出になるような方法を考えています。皆さん、協力宜しくお願いします。


27.(1998年)共に生きる(15)
 今年も宜しくお願いします。
 昨年の暮れに友達に誘われて、新宿のホームレスの人達を支援する催しの中のコンサートに行った。ボランティアの人達は、この催しを手弁当でやっていた。その事に感動した。
 世間では、ボランティアをかっこいいだけでやっていたり、口できれいな事だけ言っていたり・・・。大事なことを見失っているのではないだろうか。ぼくもその中の一部になってしまっていることがある。
 このコンサートを見て、つくづく弱い人の立場になって考えないといけないと感じました。


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28.(1999年4月)共に生きる(21)
 ぼくには去年から悩みがあります。それは友達とのことです。彼は昔一人でアパートを借りて、自立した生活をしていた人です。彼は若いけれど、ぼくはとても尊敬していました。ところが最近は彼との関係が微妙です。彼とは昔に比べると、いろんなことを話したり、聞いたりします。その中で最近だんだん彼の嫌な面も目に付くようになってきたのです。彼は言う事は立派でぼくに説教じみた話もよくするけれど、彼が現実にやっていることは、それに見合っていないように思えるのです。ぼくは彼に優しくしようと思ってきたけど、この頃ぼくもちょっと頭にくることが多くなってきて、どうしたらいいか悩んでいるのです。

 答えはまだ見つからないけれど、今、ぼくが思っていることは、他の人の意見や考え方よりも、まず自分の考え方や気持ちを大切にしながら、それをはっきりと表して、いつもの自分に嘘のない生き方をしていこう!ということです。今は何もできなくてもいいから、自分に正直に生きていこうと思っています。


29.(1999年6月)共に生きる(22)
 5月22日、映画「真昼の星」を鑑賞した。終わったあとに一次会、二次会と飲みに行ってくだらない話しなど、とにかくたくさん話して楽しんだ。  そこである女の人が話してくれたことがある。彼女は福祉の作業所に勤めているのだが、そこで自分に厳しく接してくれた人がいたから、今の自分があるのだというようなことを言っていた。もう少し詳しく聞いてみると、その人のことはとても尊敬していて大事な人だとも言っていた。その話を聴いていてぼくはだんだんとお酒がおいしくなっていた。

何か特別な能力とかがなくても、何かしらの魅力のある人というのは、その人にその人について行きたくなるんじゃないかなぁとぼくは感じた。家に着いたとき、もう朝になっていた。


30.(1999年8月)共に生きる(23)
 この前ちょっと京急蒲田駅の近くに遊びに行ったときのこと。
 新しいラーメン屋ができていたのだけど、やはりその店も車椅子ではそのまま入る事はできなかった。(入り口に段差がある)

 5年前から、これから新しく作るお店は、障害者にとっても使いやすいように基準、約束事が決められている。東京都からもその法律に則ってやるように書かれた書面もある。5年前以前に造られた古い店ではやむをえないと思うが、新しくできるお店はその基準を守ってほしい。

 3年ほど前、ぼく自身で調べて、お店や区役所に言いに行ったことがあった。中には、車椅子用のトイレはあるけれど、入り口に段差があって正面から入れず裏からしか入れないお店もあった。そこの喫茶店は、はじめはスロープを作る予定だと言っていたのに、できたら階段になっていたのだ。格好いいこと言っているけど実状はこうなのだ。いろんな団体はあるけれど、おかしいと思うことを訴えていく団体はないのか?ぼくは個人でもやっていくよ!

 このところ、平和についていろんな話題を聞く。昔のことは大事だと思うが、障害者と健常者にある心のバリアー(差別)など、目の前の新しいことも取り組んでいきたい。それに数の多い方の意見じゃなくて、一つの事や意見を大切にするというこころを育てないと、いつまでたっても平和ってことにはならないと思います。


以上
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